その扉が面している廊下には、小さなガラス製の台が置いてある。
 台の上には同じくガラスでできた花瓶が置いてあり、誰かがいつの間にか花を生けている。
 城に仕えている者の誰かである事は確かだが、それを代える姿を誰も見たことはなかった。
 だが、誰がその花を生けているか、などという疑問は頭の片隅にあるだけで、彼女にとってはさして重要ではなかった。
 彼女にとって重要なのは、その花が枯れているか否か。
 花が枯れている時は、扉の向こうにいるであろう、その人の機嫌が悪い時であるからだ。

 今日の花は白と水色の小さな花だった。
 白であったはずの部分は砂のような色に変わってしまっていた。
 軽くノックをして扉を開ければ、大きな紺と銀の座椅子に深く腰掛けていた。
 その前には、重そうな木製の机が備えられている。
 クルースニクス・フォード、帝国の大臣である。

 彼は入ってきた女性を一瞥しただけで、視線をすぐに宙に戻した。
 「どうして竜の排除を直ちに行わなかったんだい?」
 女性は何も答えなかった。
 ただ感情のない瞳を彼に向けた。それが余計に彼女に愁いの表情を作らせる。
 クルースニクスはそのまま話を続けた。

 「キングは君を初期化するべきだと考えているようだけど。僕は、あまり乗り気じゃないんじゃないんだよね。」
 女性はやはり応えない。
 「だってそうだろ?感情を持ってしまった君は、もう既に駒ではない。駒ではない君を、駒のように扱う事はできない。」
 クルースニクスがそこまで言うと、女性は初めて口を開いた。
 「何故、私にこのような話をなさるのですか?」
 その言葉を聞くと、クルースニクスは小さく笑った。
 「僕の方こそ聞きたいね。どうして君はそんな事を聞くんだい?」

 2人の間にしばらく沈黙があった。
 先にそれを破ったのはクルースニクスの方であった。
 「君にこの話をするのは君に選んで欲しいからだよ。初期化するか、それともこのままでいるか。」
 女性の目に疑問の色が浮かんだ。
 「君が任務遂行に今まで通り従事するなら、僕はこのままでもいいと思っている。」
 クルースニクスはそう言うと、浅く座りなおし、机に肘をついた格好で尋ねた。

 「君は竜を殺せるかい?」

 数十秒、いや数分。
 女性は応えなかった。
 クルースニクスは頬杖をついて、それをじっと眺めていた。
 碧の目に、女性は支配される。
 やがて女性は静かに言った。
 
「殺せます。」
 
―――――いや、殺せるはずなのである。私は駒なのだから。

 クルースニクスはそれを聞くと、口の端を奇妙に吊り上げた。
 「それなら、証明してもらおうか。」
 女性に告げた任務は、以前から情報の入っていた竜の排除であった。
 そこには何人かの竜が時折顔をあわせ、竜族の大消失事件についての情報を交わしているらしい。
 そこを襲撃せよと言うのだ。

 女性は「了解いたしました。」と言って、丁寧にお辞儀をし、部屋から去っていった。
 部屋を出た時に、ふと女性の目に花瓶が入る。
 いつの間にか、また誰かが花を生けていた。
 真っ赤な薔薇であった。







 部屋に残ったクルースニクスは、しばらく宙を眺め、それから言った。
 「いるんだろう?」
 その言葉が合図だったかのように、どこからともなく男が姿を現した。
 「気づいてたんだ。さすがだなぁ。」
 「君は所詮、人間だ。気配を完全に消す事なんてできないよ。」
 男は笑って頷いた。

 それから机の上にひょいと腰掛ける。
 「自我を持つ駒は必要ないって事?」
 「別にそういうわけじゃない。自我を持ち、任務に背く駒が必要ないだけでね。」
 クルースニクスはそう言うと、立ち上がって窓際による。
 窓の外は曇りの夜だ。
 「彼女はそれだった。だから排除するまで。」
 「厳しいなぁ。少しの心の揺らぎくらい、許してあげたら?」
 男が軽い口調で言うと、クルースニクスは笑みを返して応えた。 

 「僕の望みは破壊であって、悦楽ではないんだよ。君とは違ってね。」


 それを聞くと、男はクルースニクスをじっと見た。
 クルースニクスはまた窓の外を眺めていた。
 星も月も見えない、闇の世界。
 「クィーンと竜、いずれ害虫になるのなら、早めに駆除しておいた方がいい。」
 僕は合理的なのが好きなんだ、とクルースニクスは続けた。
 男は興味なさ気に相槌を返す。

 「それで、どっちもヤっちゃうワケ。怖いなぁ、大臣様は。」
 「彼女が殺せるって言ったんだ。最後まで彼女には働いてもらうよ。
  それに一匹ずつ殺すよりも、一箇所に集めて爆破した方が早いだろ。」
 クルースニクスが喉の奥で笑った。
 「彼女には火の役を演じてもらうだけさ。虫は火に集まる。」
 そして火は虫を殺した後に、消え行く定め。

 「ま、関係ないけどね。彼女がもう少し動いてくれれば、僕としては面白かったんだけど。」
 男がそう言って、机から降りる。
 振り返ったクルースニクスに男は笑顔を向けた。
 「もう少し楽しませてくれよ。」
 クルースニクスは何も言わなかった。
 ただ、同じように笑みを浮かべただけで。
 




 それから、数時間後。
 クルースニクスの部屋に、1人の使いがやって来た。
 竜王がお呼び出しである。
 クルースニクスは書きかけの書類をそのままに、部屋を出る。
 と、廊下にある真っ赤な薔薇に目がいく。
 生命を象徴するような赤。
 「目に痛いな・・・」
 「は?」
 使いがクルースニクスの言葉に首をかしげた。
 「いや、何でもないよ。」
 人の良さそうな笑顔を向けると、使いは不可思議な顔をしながらも、また前を歩き出した。
 クルースニクスは薔薇に手をかざす。

 薔薇の花びらが散り始める。
 大きな外側の花びらが、ひらり、ひらりと。
 数枚散った後で、今度はその赤が枯れ色に染まり始める。
 少しずつ、その赤が奪われていく。
 花びらがしおれ、茎が生気を失って倒れていく。
 たった数秒の間で、薔薇は死んだ。

 クルースニクスは残った茶色の薔薇を、その手で握りつぶした。
 乾燥した花びらが、崩れていく音がする。
 手を放せば、まるで砂のようになった薔薇が水を張った花瓶の中に落ち、浮いた。
 クルークニスクは誰に聞かせるでもなく呟く。
 「無こそ全てだ。それ以外は何もいらない。」
 悦楽も、愛情も。

 もしも彼が悦楽のために、自分を邪魔する事になれば、今度は彼を排除する。
 だがそれまでは、使ってやろうじゃないか。
 “考える駒”も“クィーン”も所詮は、僕の手の内で操られる駒にすぎない。
 チェックメイトをかけるためならば、何を犠牲にしてもいい。
 それで、最後に僕が勝つなら。

 クルースニクスは廊下を歩き始めた。
 足音が高い天井に響く。
廊下にある大窓の外は依然、闇のままである。


―――Sky of Dragon Concert

 さあ、無へと墜ちゆこう。