世界は平和に満ちていた。

 誰もが平穏に満たされていた。

 喧騒賑わう街の中に旅の詩人が一人座す。

 詩人は謳う。始まりの詩を。

 詩人は奏でる。始まりの調べを。

 これは忘れさられた物語。

 この世界にまつわる協奏曲。





※  ※  ※





 虚無はあまりにも強大であった。

 世界を喰らい続ける者。世界を崩壊へと導く者。

 綻びた世界にあまねく虚無がひとつの形を取った時、世界は真の破滅を迎えようとしていた。

 虚無は高らかに詠い上げる。

「女神は眠り、この世を守護する竜も既に少数。貴様らに勝算はなし。唯この世界は綻び解けていくのみ」

 虚無の嘲笑と共に空間が崩れていく。

 誰にも感知できなくとも、世界は根底から消え去っていく。

 かつてある魔女の予言した真実。

 誰もが信じようとしなかった事実。

 世界の終焉はすぐそこまで迫っていた。

「世界が終わる……。それでも私は従おう。主は私に言った。生きよ、と」

使い魔は静かに告げた。主への忠誠の言葉を。その表情に感情は伺えない。

 虚無の笑いは止まらない。

「おいおい、諦めちゃいけないぜ。おいらは信じない。世界が終わるなんて信じない」

妖精は否定する。世界の終わりを拒絶する。その瞳は力強く輝いている。

 虚無の笑いは止まらない。

「簡単には終わらせぬさ。我らは護り続けてきた。そしてこれからもきっと、護り続けていく。この世界を」

 竜は静かに語る。幾たびも繰り返してきた虚無との戦いを思い出しながら。

 虚無の笑いは止まらない。

「僕は……僕達は、何もわかってなんかいなかった。誰も知りもしなかった。今まで与えられていた平穏。ずっと、護られていたことを」

 人間の少年が一歩、前に出た。

 握られた一振りの剣は邪気を払わんとするかの如く激しく煌く。

 虚無の笑いは哄笑に変わる。

「無知は悪ではない。否、無知であれば最後の時まで幸せでいられたであろうに」

 世界の崩壊は止まらない。

 稀薄になっていく空間の中、虚無と対峙するは人間、竜、妖精、使い魔。

 虚無は既に空間と1つになっていた。

 敵の腹の中にいる不快さが彼らを包む。

 少年は魔女より預かり受けた首飾りにそっと触れる。

 少女の姿のまま永久を生きてきた魔女。彼女がその生を賭して彼に託した想い。

「最後なんて訪れない。その為にここまで来た。多くの人達の力を借りてここまで来た」

 少年の凛とした声は、だが虚無を怯ませるには至らない。

「だからどうした。もうすぐ終わる。これから終わる。この世界の終焉と共に、貴様らの命もまた幾千と散り往く星々の如く消えていくのだ」

「させない」

 拒絶の言葉を上げたのは使い魔。

「主の命令に従うが私の幸福。ここで死ねばそれは主命に反する。世界が滅びるもまた然り。故に私はお前を認めない。世界の終わりを認めない」

 感情の伺えぬ表情。しかし、その胸に秘められたるは烈火の如く燃える炎。

「良く言ったぞ。その通り。おいらも死にたくはないからさ。ちゃっちゃと片付けて村に帰らせてもらうぜい!」

 妖精は疾駆する。まさしく風となった彼は虚無へと向かって体当たりを仕掛ける。

 空間が激しく揺れる。

「小賢しい。我に敵うと思うなよ、小さき者」

「うわぁ!」

 虚無が蠢き何もない場所より放たれた闇色の弾が妖精を撃つ。

 激しく身体を撃たれ弾き飛ばされた彼は、しかし地面に叩きつけられることはなかった。

「はやるなと言っておいたであろう。仕方の無い奴だ」

 妖精を助けたは竜の編み上げた守護結界。彼の結界は大地の如く世界を支える護法。

「つまらぬな。あまりにも脆弱過ぎる」

 虚無の笑い声と共に終焉は迫る。

 それでも彼らは恐れない。

 彼らと戦わざるを得なかった人達がいた。

 虚無を憎むが故に虚無となってしまった人達がいた。

 虚無と戦った。

 平和を唯愛する人達がいた。

 彼らを助けてくれた。信じてくれた。

 想いを託して亡くなった人がいた。

 少年はまた一歩前に出た。

『予言は覆せない。奇跡でも起こらない限り』

 魔女と呼ばれた少女と交わした最後の約束を思い出す。

『でもきっと、奇跡を起こしてみせて』

 その笑顔に誓った。

「僕達は負けない。竜が護り続け、彼女が愛したこの世界を必ず救ってみせる」

「弱き者よ。貴様にそれが出来るのか?」

「やってみせるさ!」

 少年の首飾りが青く輝く。海の色を映した光が少年を包む。

 少年の剣に力が宿る。輝きを増し、剣の刃は実体を失う。

 実体無き光を精製し、あらゆる虚無を切り裂く聖剣。

 己の武器をしっかりと握る。

「往こう、皆!」

 少年の声に皆が応じる。

 使い魔は主より預かり受けた銃より魔弾を放つ。

 妖精は跳び闇を払う。

 竜は結界を張り仲間を護る。

 少年は地を駆け光の刃で虚無へと斬り掛かった。

「よかろう。これが終焉の始まりだ! 全て闇へと返るが良い!」

 虚無の反撃。

 光と闇が交差し、爆音が響いた。

 そして……。





※  ※  ※





 詩人は静かに息を吐き、竪琴を弾く手を止めた。

 音の余韻は夕闇へと消え、辺りは静寂に閉ざされた。

 しんと静まり返る街の広場に詩人は告げる。

「此度は既に時も遅く、続きはまた明日とさせて頂きます」

 徐々に広がっていく喧騒。

 子供達が不満そうに詩人へと駆け寄った。

「続きを教えてよ!」

「皆は一体どうなったの?」

 待ち切れないとせがむ子供達に詩人は告げる。

「必ずやまた明日続きを聞かせよう」

 それで納得する子供達でもない。

 詩人のローブをひっぱり口々に不平を言う。

 優しい笑みを返して詩人は一冊の本を取り出した。

「なるほど。ならば君達にこの本を貸してあげよう」

「これなぁに?」

「私達詩人が語る叙事詩をある国の王女が編纂させた絵本さ」

 1人の子供がその本を受け取った。

「この物語とはまた違う、けれど尊ぶべき人々の生き様が描かれた本。きっと君達は夢中になるだろう」

「貸してもらってもいいの?」

「ああ。けれど必ず明日返しておくれ。とても大切な本なんだ」

 そう言って、詩人は帽子を目深に被り、ゆっくりと街へ消えていった。

 子供達はこぞってその本を持つ少年に群がった。

 孤児院に帰って早く読もうと皆が言う。

 少年はふとその本の表紙に目をやった。

 力強い筆跡で表紙に描かれていたその本の題名。



『Sky of Dragon Concerto』





 さあ、物語を始めよう。