クカット大陸中央にある竜の聖域の、さらに南東に位置する森の中。
少年は呆然と佇んでいた。
彼の育った孤児院の姿はそこに無く、兄弟達の姿も、育ての母の姿も無く。
小さくとも十数人が暮らしていた孤児院。
あれだけの建物が破壊されたなら、そこには地面の抉れた跡や瓦礫の山があるはず。
なのに、何事も無かったかのように、初めから何もなかったかのように、そこには草花が揺れるだけ。
一体何があったというのか。
週末皆で女神に祈る。そんな行事が面倒で、たまたま森で昼寝をしていたその間に。
これは天罰だろうか。女神に祈ることを忘れた罪の代償だろうか。
そう嘆く少年の目に、ふわりと揺れる何かが飛び込んだ。
それはスカーフ。
母が大事にしていた、不思議な糸で編み上げられた赤いスカーフ。
少年はそれを拾い上げ、そして誓う。
必ず皆を探し出す、と。
農家の馬車が帝国領の中心へと向っていく。
積荷の干草の上であの日の少年、レキが大きな声を上げる。
「ちぇっ。『フクロウ』め! ガセネタ掴ませやがって!」
トレジャーハンターギルド『フクロウ』は遺跡の情報を売買する組織である。
しかしその裏で、人間や動物に取り付き世を乱す存在、虚無についての情報もやりとりしているという。
そこでレキは、虚無が群れを成し力を蓄えているという情報を『フクロウ』から買い付けて、大陸北端の森まで向かったのだった。
しかしそこにいたものは……、
「飢えた狼が群れを作ってただけじゃねえか。くっそー」
短い金髪を乱暴に掻き毟った後、左腕に結んだ赤いスカーフを目に留める。
あれから一年。多くの冒険があった。
力無き少年は竜と出会い力を得、そして知恵ある竜の存在を知る。
家族を求め知恵ある竜を探し、その過程で虚無と呼ばれる者達の存在を知る。
虚無の力。その破壊の爪跡と、孤児院の消滅。その類似性。
そして今、少年はここにいる。
「坊主ー。そろそろ休憩にするでな。馬車止めっぞー」
「あいよー」
馬車を御する農夫に応える。
休憩する農夫達から少し離れた林の中で剣を振るう。
手甲から飛び出る刃を己の身体の一部かのように扱い、素早く木の枝を切り裂く。
―――疾風より猶速く。雷より猶激しく。闇を断ち切る灼熱の剣であれ。
師の言葉が思い出される。
ある目的の為に旅をしているという竜。それがレキの師であった。
竜の持つ最強の爪を使い戦う師の戦闘法。彼はそれを余さず教わったのである。
「……師匠、どうしてっかな」
師と別れたのは半年前。彼の竜は自身の目的の為にレキと別れた。
思い返せば多くを語った。
レキの旅する理由。竜という存在。様々な竜の武勇伝。師の家族の話。
『私には君より少し大きいくらいの娘がいてな。今頃どうしてることか』
恨まれても仕方のない、どうしようもない父親だ。そう続ける。
苦笑いをしながら、フォルケルンハイムに置いてきたという家族について話す師。
何故彼が幸せを捨ててまで旅をするのか、その時のレキには分からなかった。
「虚無、か」
師は謎の多い竜であったが、恐らく虚無を追っていたのだろうと、今なら分かる。
パキリ。
枝を踏み折る音にはっとする。
振り返るとそこにいたのは、レキとそう年の変わらないであろう二人の少年。
杖をつきながらにやにやと笑う少年と、銀の髪と銀の眼が目立つ少年。
「やぁ。さっきのは何処の武術なんだい? 格好良いね!」
レキの視線を受けて、杖をついた少年が足を引き摺りながら近づき、馴れ馴れしい口調で話しかけてくる。
「ん。名のある技じゃねえよ。お前らは?」
大方、あの農村の若者だろうか。
しかし農作業をする風には見えない。
「ははは。僕は……うん。コマ。コマって言うんだ」
「ん。俺はレキ。で、そっちは?」
銀髪の少年へ眼を向ける。だが、彼は何も応えずコマと名乗った少年の背に隠れた。
「余り気にしないで欲しい。こいつは人見知りでね」
苦笑してコマが言う。
「ふうん」
「そろそろ休憩は終わりだってさ。馬車に戻ろう」
結局銀髪の少年の名前は聞けないらしい。
無理に問いただすものじゃないな。
そう思いながらコマの言葉に頷いた。
馬車が見えてきた所で、コマが話しかけてきた。
「そのスカーフ、綺麗だね」
「ん。ああ、これか」
孤児院が消えたあの場所で、唯一残されていたスカーフ。
腕に巻きつけたそれを、レキは軽く見やる。
「なんていうかな。俺の母親代わりだった人の手掛かりなんだ」
「へぇー」
「これが何かはわからねーんだけどな」
肩を竦めてレキは笑う。
そんな彼を、コマは薄笑いと共にじっと見つめる。
その表情に、ぞくりとした寒気を感じた。
「な、なんだよ」
「鍵だね」
「は?」
眼の前の少年は猶も続ける。
「妖精の髪を竜の血に浸し、魔女の魔力で紡ぎ上げた聖衣。その一部。
うん、天女伝説ではそれが女神の御処を開く鍵とも言われているんだよね」
コマはしきりに頷く。
「お前、一体何を……」
「面白いなぁ。強い魔力を感じて来てみれば、まさか君みたいな人が持ってるなんて。
ああ、うん、そうか。だから“昏き陽の皇子”はあんなことをしたわけか。なるほど」
レキの混乱を差し置いて、彼は一人で納得している。
その様子は普通じゃない。普通の人間とは思えない。
だから、
「お前、一体何者だ!」
レキは間合いを取りながらそう叫ぶ。
コマは可笑しそうに笑い、そして静かに答えた。
「僕は虚無側についてる、唯の人間さ」
「な……っ!」
「“考える駒”。だからコマ。偽名だけどね」
コマは笑う。否、哂う。
どくり。
レキの心臓が早鐘を打つ。
「虚無側の人間って言ったな」
それならば。逸る気持ち。
それならば。あの日の喪失感が蘇る。
それならば。もし、この少年が虚無と繋がりがあるならば。
「あの人達……義母さんや、チビ達を何処へやった!」
「さあね。“昏き陽の皇子”か“盤面の支配者”か。
どっちが考えたにしろ、知ったことじゃあないんでね」
コマの返答は事も無い。そしてまた嫌な哂いを浮かべる。
「ま、虚無にやられたんなら……無に還ったんじゃない?」
それで、ぷつりと何かが切れた。
「てめぇえええええっ!」
地を蹴り低空を駆ける。そして手甲から飛び出した刃をコマの首筋へと叩きつける。
だが、
「“流浪の弾手”」
コマの声と共に、音が響く。
「なっ!」
まるで盾で受け止められたかのように、レキの刃が虚空で止まる。
危険を察知したが、遅い。
またもや音が聞こえレキの身体は林の方へと弾き飛ばされていた。
「く、ぐ……」
激痛に耐えながら頭を起こし、音がした方に視線をやる。
そこには、何時の間に取り出したのか、バイオリンをその手に持つ銀髪の少年の姿。
力が入らず立ち上がることができない。
そんなレキの耳に、コマの声が聞こえてくる。
「君は面白い運命にあるね。虚無と竜の戦いを上手く掻き乱してくれそうだ」
くつくつと愉快そうな声。
「しっかり虚無や竜を追ってくれよ。見逃してあげるから」
「お前らは……虚無は一体何をしようとしてるんだ……」
薄れそうになる意識を抑えながら、レキは問う。
「虚無はこの世界を滅ぼしたいみたいだけど、僕はそんなことどうでもよくてね」
「な、に……?」
既に敵の姿も見えず、声だけが響く。
「ただの、退屈しのぎさ」
レキの意識はそこで途絶えた。
レキが眼を覚ましたのはそれからしばし経ってのことだった。
「ちく、しょう……!」
土にまみれて空を見る。平和そうな空。なのに。
師に教わった武術の欠片すら発揮できず、彼はあの銀髪の少年に負けた。
“流浪の弾手”と呼ばれた少年に。
コマに負けたとは思わない。だが、悔しい。
―――ま、虚無にやられたんなら……無に還ったんじゃない?
あの嫌な哂いを思い出し、歯を鳴らす。
絶望などしない。諦めたりしやしない。
「絶対、諦めないからな! 俺が諦めたら、誰があいつらを探してやるんだよ……っ!!」
それは自分に言い聞かせる為の、遠吠えだった。
“昏き陽の皇子”、“盤面の支配者”、“流浪の弾手”、そして“考える駒”。
レキの失ったものの在り処、あるいは手掛かりを知りうる三人の虚無と一人の人間。
秘めた絶望は希望に変える。
虚無や竜を必ず見つけだす
空へと突き出された左腕。
少年の決意の前に、母の残した布切れだけが揺れていた。
運命は絶望に応えない。嘆きはただ虚無へと消える。
運命は希望に応えない。全てを識る竜の姿は消えた。
少年の望みは遠き幻。運命は険しき幽玄の山。
それを乗り越えて、彼の旅は何処までも続く。
―――Sky of Dragon Concert
さあ、探しものを見つけよう。