この雨がどれほど降れば、血に濡れたこの身体が洗い流されるだろう。
 体温が急激に下がりゆく中、少女はそんなことを考えた。
 ぼんやりとした視界に見えるもの。
 彼女が落ちてきた崖の岩肌。闇色にそびえる暗黒の塔。
 どこまでも生い茂る木々。暗澹たる自然の迷宮。
 少女にすがる弟の顔。泥に汚れた銀色の髪。
 どれほどそうしているのかはわからない。
 どれほどそうしていたのかはわからない。
 ある時、姉弟のものではない声が聞こえる。
 それは闇から聞こえる男の声。

『深き虚無に照らされし少年よ。絶望に心を委ねよ』

―――ダメ。

『我等が眷属となればその少女も助けられよう。故に』

 弟の、少女と同じ銀の眼がその男に向けられる。
 それはすがるような瞳。それは崇めるような視線。

―――ダメ!

『さあ我等と往こう、少年よ。その少女を助ける代償に、その全てを失いながら』


 願いの言葉は虚空へと消える。
 なけなしの想いを虚無が踏みにじる。
 双子の弟は、悪魔に魂を売った。



「フロールッ!!」
 目覚めの声に返る木霊は無い。
 また眠っていたらしい。
 ベッドの上で身を起こしながらユーリヤはそっと溜息を吐く。
 どうも最近、眠る回数が増えている。
 この一年以上に渡る旅は、知らず彼女の心身を蝕んでいるらしい。
 掛け布団をそっと剥ぎ取り、船内を見渡す。
 クカット大陸へと向かう船の中は静かだ。

 と、船室の扉が音を立てて開く。
 現れたのは金の髪、金の目をした青年。
「あ、シャルルさん。外に出ていたんですか?」
「ちょっとね。他の船客と少し話をしていたんだ。笛を吹くのが上手な竜族の少女だったよ」
 シャルルと呼ばれた青年は優しく応え、ユーリヤの頭をそっと撫でた。
 ユーリヤはくすぐったそうな仕草をし、小さく微笑を返す。
「少し顔色が悪いね。良く眠れなかったかな?」
「ちょっと……ううん。何でもありません。ぐっすり快眠です!」
 あの悪夢のことを話せばシャルルは心配するだろう。
 だから、少女は健気に元気な様子を見せる。
「そっか。でも、まだしばらく掛かると思うし、もうちょっと眠るといいよ」
 少し躊躇もあったが、彼女は青年の言葉に従い寝床に戻った。


「………」
 眠ったのを確認し、シャルルは少女を悲しげに見下ろす。
 先週、スラトビエ大陸の迷いの森で出合った虚無。“昏き陽の皇子”の言葉が思い出される。
『我等が眷属の魂の片割れ。故にやがて虚無にも堕ちよう。拒絶すれば知らぬが、な』
 あの男の言葉は真実なのだろう。
 ユーリヤの弟については彼女自身から聞いていた。
 ユーリヤを助ける力を得る為に、自ら虚無の使者へと身をやつした彼女の双子。
 双子は魂で繋がっていると云う。
 そして虚無は肉体を潜り精神を侵し、その真髄まで喰らい尽くすと云う。
 魂を穢された双子に対応するように、少女の眠りの頻度は増えている。
 ならば遠くない未来、彼女は虚無に堕ちるか、さもなくば……その命を散らすのか。
 いや。
「愛する者、主人の命は護れなかった。けれど」
 例え、“虚偽の竜”である自分には小さな世界すら護れないのだとしても……。
 目の前にある儚き命くらいは救ってみせる。
 主人に恥じぬ己でいる為に。
 少女の知らぬ少女の危機を前に、“虚偽の竜”は静かに誓う。


 大きな音がする。外が騒がしい。
 使い魔として、知覚能力に特化しているシャルルには分かる。
 嫌な気配。虚無の感触。
 シャルルに攻撃能力は与えられていない。ここに入り込まれたら……。
 だが、虚無の気配とは別に感じるものがある。
「そうか。あの少女……」
 船室の外で出合った竜族の少女を思い出す。
 一、二……次々と嫌な気配が減っていく。
 ならば、
「僕はここで、今己が護るべきものを」
 眠りについた少女の髪を、“虚偽の竜”はそっと撫でた。



 あれから3週間。
 ユーリヤとシャルルは港町に滞在している。
 シャルルが取った予約の船が出向するのは後1週間程。
 今まで少しずつ稼いできたお金で滞在費は賄える。
 のんびりした3週間だった。


 潮騒に耳を傾け磯の薫りを嗅ぐ。
 賑やかな夕暮れの市場を歩く。
 港町に泊まる前はあれ程頻繁に訪れた眠気も今は無く、すこぶる調子が良かった。
 だから、滞在費はともかくその日の食費くらいは稼ごうと、広場で詠った帰り道。
「後一週間、かぁ……」
 長かった。いや、短かったのだろうか。一年の旅路。
 弟を探して歩き回き、その途中でシャルルと出会い、虚無と戦い……というより捕まって逃げ回り、全知の竜のことを知った。
 全知の竜は海洋に立つ塔の地下深くに住むと云う。
 定期船の航路には無い、忘れられた海の真ん中に、静かに立つ塔の奥底に。
 世界という秤に社会という重りを載せて、全てを見通す竜。
 ならば、シャルルの探している竜、そしてユーリヤの弟のことも。
 そう、もうすぐ分かる。全部分かる。
 きっと。きっと……。

 どんっ。
「きゃっ!」
 内へと沈む思考は、突然の衝撃に破られた。
 尻餅をつき、ちょっとした痛みが走る。
「どいてっ!」
 見ると、それは鬼気迫った様子をした妖精の少女。
 その小さな身体に抱えられた二個のりんご。羽を覆わんばかりの栗色の髪が揺れる。
「あ、えっと……」
 ごめんなさいと、そう謝ろうとする前に、妖精は何処かへと飛んでいった。
 ユーリヤが立ち上がり、妖精の姿が見えなくなる頃、息を切らせた中年の男が走って来る。
「はぁ、はぁ……っ。お、お嬢ちゃん。こっちに、ちっこいのが走って来なかったかい」
「え、えっと。あっちの方に。でももう、大分遠くへ……」
「くそ! 逃げられた!」
 忌々しそうに男が吐き捨てる。
 尋ねてみた所、どうも店先で先程の妖精に売り物のりんごを盗まれたということだ。
「ったく、人様の物に手ぇつけるなんてとんでもねぇな!」
 怒り。怨み。そんな感情を感じ取る。
 それはそうだろう。売り物を盗まれて怒らない人間などいない。
 けれど。ユーリヤはふと妖精の顔を思い出す。
 辛そうな、切羽詰った表情。
「あの」
「ん? どうした、お嬢ちゃん」
 ポケットから数枚の金貨を取り出す。
「その、足りないかもしれませんが」
 そう言って男に差し出した。
 男は困惑するような表情を浮かべる。
「えぇと、お嬢ちゃんは、奴の連れかなんかなのか?」
 首を横に振る。少女の顔には物憂げな、しかし優しい微笑。
「じゃあ、どうして?」
「あの娘を許してあげて欲しいんです」
 ユーリヤは静かに語る。
「あの娘の表情を見ました。とても切羽詰った表情で、凄く辛そうで……。だから、きっと何かわけがあると思うんです」
 静かな声。優しい声。
 どうしてだろうか。男は己の怒りが静まっていくのを感じる。
 こんな一言で盗みの怒りが収まればわけはない。
 だというのに、まるでその言葉は魔法か何かのように、心に響く。
「……わかったよ。ああ、金も払ってもらったわけだし、文句もねぇや」
「良かったです」
 輝く様にユーリヤは笑う。釣られて男も笑った。
 潮騒と共に、穏やかな風が吹いた。


 ユーリヤの持つ力。それは言霊とも云える、言葉を源泉とする能力。
 意識するとも無しに彼女の言葉は他者の心に強く響く。
 それはひとつ間違えば人を容易に傷付ける刃と化す。
 心を抉り、傷口に塩を塗り、影の様に追い詰め、硝子の如くに砕き割る。
 そんな力だからこそ、この優しき少女に相応しい力。


「〜♪」
 ユーリヤは帰る。優しき青年の待つ宿へ。
 鼻歌を口ずさみ、腕一杯に果実を抱えながら。
 彼女を気に入ったと、先程の男が持たせてくれたお土産。
「いつも助けてもらってるから、お返しになるかな」
 嬉しそうに、そんな事を考えながら宿の中。
 階段を弾むように昇って部屋の前。
 ユーリヤは静かに、その扉をノックした。


 探し物は手掛かりすらも無く消えた。
 けれども少女は諦めなかった。
 護るべき主人を失えど最後の命令を守り往く。
 そして青年は少女と出合った。
 彼らの旅の終着点はおそらく近い。
 彼らはその手を取り合い、残る道を踏破するだろう。
 目指すは全知の竜の下。
 彼らに答えを与え得る賢者の住まう塔へ。


「あ、れ……?」
 急に足元が無くなる。
 否。ユーリヤの身体が力を失い倒れているのだ。
「どうし、て……?」
 何かがたくさん転がる音。扉の開く音。良く知る青年の大きな声。
 落ちていく。堕ちていく。暗い、昏い、闇黒の沼底。
 何も分からぬままに少女の意識を……、

「    」

 暗い光が全て閉ざした。



―――Sky of Dragon Concert

 さあ、魂を救い出そう。